2018年12月13日木曜日

今年の同窓会・同門会・同好会(4)

(4)退職後の会
「一般社団法人 石川県職員退職者会」
 私は昭和35年に石川県に奉職し、平成8年に退職した。退職後は大部分の人は表記の退職者会に入会する。同時に県内に6つある支部に所属することになる。私は白山総支部に所属する。支部では毎年春に総会が懇親会を兼ねて催されるし、また全体の定期社員総会も支部総会の後の5月30日に金沢市の石川県文教会館で開催される。また全体の会員研修会・懇親会が秋に和倉温泉「加賀屋」で開催される。私も時々出席しているが、何故か女性の参加が多い。また例年秋には3泊4日の国内旅行、春には7泊9日の海外旅行を行っているが、本来は退職者がメインなのだが、知人の同伴も可ということで、参加者は国内で2千人、海外で1千人の規模、従来は農協さんが有名だったが、今ではこちらが国内最大の規模と聞く。私も家内と北は北海道の利尻や知床から、南は沖縄・石垣までツアーに参加してきた。外国旅行にも家内が友人と参加したことがある。現在会員は2千名を超える。年会費は3千円である。年3回機関誌が発行される。
「椎の実クラブ」
石川県職員で、退職時の職位が担当課長職以上の職にあった者が入会できる。毎年春と秋に知事も出席され、会員の叙勲受賞者と米寿の方々のお祝いを兼ねて、毎年金沢ニューグランドホテルで開催される。現在の会員数は6百名強である。年会費は2千円。

(5)同好会
「探蕎会」
 この会は我が師の波田野先生が公職を辞された時に立ち上げられ、5人のサポートで発足した。平成10年のことである。そして波田野会長と松原副会長が会を牽引された。また発起人の塚野さんは会員そば打ちに貢献され、同じく前田さんは事務局として連絡・調整・会誌の発行に尽力された。また全国各地へのそばツアーの立案・遂行には、後任副会長の久保さんの尽力が大きかった。一方で会の行事の目玉だった越前丸岡蕎麦道場への春秋の訪問も、海道さんの体調不良で中止になり、また湯涌みどりの里での会員そば打ちも終いとなり、また久保副会長が急逝されてからは、県外への探蕎ツアーの立案もままならず、会の行事は低迷した。そして平成29年12月に開かれた世話人会で、前田事務局長から、会員の高齢化もあり行事の遂行がこんなんになったので会を解散してはという動議が出され、総会に諮ることになった。明けて平成30年3月の総会では、寺田会長も90歳を超えられていることもあり、事務局の案は承認された。そして会報も第64号( 2018.4.30 ) が最終号となった。20年の歩みだった。
「石川県巨樹の会」
 この会は平成元年 ( 1989 ) に里見信生先生によって創設された。先生は波田野先生とは旧制中学校では同期だったとか。また私の叔父の木村久吉とも親交があった。金沢大学が戸田学長の時の構想で、薬学部が城内に移ることになり、まず生薬学教室が旧旅団司令部跡に引っ越したことがあったが、その折に先生とよくお会いした。石川県の文化財保護委員が叔父から里見先生に代わった後、旧県庁横の通りにあるアメリカ楓の並木を提案されたのも先生である。先生がこの会を創設された折に勧誘され入会したが、年1回の総会と年2回の巨樹探訪会がメインの行事なのだが、サボリ勝ちで真面目な会員とは言いがたかった。今年創立30周年を迎え、その記念式典と講演会に参加した。開催されたのは平成30年11月25日(日)、会場は ANA ホリデイ・イン金沢スカイ、全国巨樹・巨木林の会の高橋進会長の記念講演もあり、久しぶりに旧知の人達にも出会った。しかし会場に参集した御仁はみな高齢、という私も傘寿を過ぎている。この会の今後の舵取りをどうするのか、それが差し迫った重大な問題である。

今年の同窓会・同門会・同好会(3)

(承前)
「金沢大学ホームカミングデイ」
 他大学でも行っているというホームカミングデイのシステムを金沢大学でも導入したのは、平成10年のことである。今年で12回目、案内の対象になるのは、卒業後10年、20年、30年、40年、45年、50年を経た卒業生と、76歳以上の卒業生が対象になっている。私は卒後50年に初めて案内があり、76歳になってからは毎年案内があり参加している。期日は毎年金大祭に合わせて行われ、今年は10月27日 (土 )に開催された。行事としては、宝町キャンパスの医学コース、角間キャンパスの人間社会学域コースと理工学域コースの1コースを選択しての見学が午前中にあり、午後から歓迎式典が行われる。はじめに室生犀星作詞・信時潔作曲の金沢大学校歌の斉唱があり、学長と学友会会長の挨拶、幹部役員の紹介、大学の近況報告がある。そして毎年特別講演が1時間あり、今年は今では通信に欠かせない光ファイバーの開発に携わった金沢大学工学部出身で、現在東北大学の中沢正隆教授の講演があった。解説には難解な数式もあって、理論的なことは理解できなかったが、要は研究や技術開発には、理論をどう実際に生かすか、それには強い好奇心と情熱と意志が必要だと結ばれた。今年の講演は実に素晴らしかった。
「金沢大学山岳会」(KUAC)
 金沢大学山岳部は平成18年以降、現役の学生がいなくなり、廃部になった。以前は山岳部 OB 会と称していたが、現在は山岳会と称している。隆盛時には部員も20名を超えていたし、技術力も高く、ヒマラヤのハッチンダール・キッシュ峰に初登頂したこともある。またヒマラヤやアンデスにも何度か遠征しているが、ヒマラヤで1名、アンデスのチャクララフでは2名を失った。こうした3 K の山岳部よりは女性も入部できるワンダーフォーゲル部に人気が集まり、山岳部は次第に衰退した。現在の会員は102名、会は毎年開かれ、関東、関西、東海、北陸の4支部持ち回りで開催している。今年の第47回総会は東海支部の担当で、11月10、11日の両日、長野県で開かれ、15名が参加した。2日目には全員で近くの陣場形山 (1445m) に親善登山した。
「東京大学医科学研究所同窓会」
 私が石川県衛生研究所に勤務していた折、新しく蛍光抗体法の検査技術を習得するために、昭和43年に東京大学医科学研究所免疫学部門に6ヵ月研究生として在籍した。丁度その頃は東大紛争の折で、在籍する大学院生は、昼は東大安田講堂に立てこもり、夜に研究を続けるという変則的な状態に終始していた。私も技術的なテーマを貰い、何とか期間内に宿題を完成させた。退所後、同窓会への入会を勧誘され、以後一般会員として入会している。毎年創立記念日の11月30日に同窓会が開催され、医科研講堂でシンポジウムや講演会が行われ、昨年は東京大学医科学研究所創立125周年・改組50周年記念事業が行われた。因みに創立時の名称は東京大学伝染病研究所で、ロックフェラー財団によって設立された。そのこともあってか、第2次世界大戦中にも爆撃の対象から外されていたと聞く。現在の会員数は6百名強である。年会費1千円。

(3)小・中学校の同窓会
「こうし会」
 昭和24年に町立野々市小学校を卒業した者と、昭和27年に野々市中学校を卒業した者の計54名で、同窓会「こうし会」を結成し、私を含め男2名女1名で会の世話をしてきた。これまで還暦を機に、毎年近場の温泉での1泊での同窓会と、3泊4日程度の国内旅行を交互に行ってきた。しかし皆さん80歳になったことから、17名の物故者法要と温泉での傘寿の宴を最後に、今年の3月末をもって同窓会を解散することにした。

2018年12月12日水曜日

今年の同窓会・同門会・同好会(2)

(2)大学の同窓会と同門会
「ゼレン会」
 私は新制金沢大学薬学部の第7期で、昭和34年3月に卒業した。会名のゼレンは元素番号 Se のドイツ語読みに由来している。同期の卒業生は36名で、内7名が他界している。同窓会は以前は5年おきに開催していたが、還暦以降は毎年開催していて、地元では隔年開催、他は関東、関西、東北でという決まりになっていて、今年は関西在住の K 君の世話で、5月21,22日の両日、大津市の琵琶湖湖畔のホテルで開催された。当初は10名の参加が見込まれていたとかだったが、体調が不良とかで、参加したのは男5名、女3名だった。1年ぶりということもあって旧交を温めた。翌日は晴れの琵琶湖を周航した。
「金沢大学薬学同窓会」
 旧金沢医科大学薬学専門部 ( 薬専 ) と金沢大学薬学部、それに現在の金沢大学薬学類、創薬科学類の現・旧職員及び学生・卒業生で構成される。毎年5月の第3土曜日に金沢で総会が開催され、昨年は創立150周年を兼ねた第54回総会が、今年は第55回総会が5月19日に角間キャンパスで開催された。また年1回同窓会誌「薬友会誌」が発行されていて、昨年の 2017 年号は通巻64号だった。会の運営は新入会員の終身会費で賄われているが、これは今後検討すべき点だ。
 これまで北陸3県の薬学卒業生は、個々の支部で同窓会を開いてきていて、時に合同で行なうこともあったが、昨年のこの会で、これからは3県合同で行なうことになり、今年はその第1回金沢大学薬学北陸同窓会が10月28日に KKR 金沢で開催された。今後はこのような傾向は進むようで、既に関東、関西、東海では実施されている。
「金沢大学医学部十全同窓会」
 私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業後、石川県衛生研究所に就職した。その後金沢大学医学部から赴任された三根晴雄所長の勧めで、西田尚紀先生が主宰する微生物学教室に専修生として、波田野基一先生の下で指導を受けた。その後波田野先生が新設された癌研究施設(後にがん研究所)へ移られた後はそこで研鑽を積み、昭和50年2月に学位を授与された。以降十全同窓会の通常会員(Ⅱ)になっている。同窓会総会は今年は7月7日に医学部記念館(旧十全講堂)で開催された。また年3回十全同窓会会報が発行され、最新号は170号で、平成30年 ( 2018 ) 9月に発行された。年会費4千円。会員番号は920080である。
「金沢大学医学部微生物学教室同門会」
 学位取得前に微生物学教室に席を置いたこともあって、2代目教授の西田先生の時に同門会に加えて頂いた。この同門会は初代教授の谷先生の時から、3代目教授の中村先生(後に金沢大学学長)の時までは毎年実施されてきたが、4代目教授の清水先生の時は一時中断された。でも5代目藤永先生が就任されてからは再び毎年開かれている。今年は10月27日に金沢の石亭で開催された。また昨年には同門会誌「楷樹」が創刊された。年会費3千円。
「金沢大学学友会」
 この会員は、大学の卒業生や教職員等の個人会員と大学の同窓会の団体会員とからなり、サークル等の登録同窓会も準団体会員として加入している。金沢大学のホームカミングデイに合わせて開催され、キャンパス見学会、歓迎式典、特別講演の後に一般会員も参加して、学友会役員総会と称して開催される。今年は第8回にあたり、会では一般会員への役員の紹介と議案の審議が行われる。現会長は前金沢市長だった山出保氏である。

今年の同窓会・同門会・同好会(1)

(1)高校の同窓会
「泉丘第7期 仲良し会」
 私は昭和30年 (1955) 3月に石川県立金沢泉丘高等学校を卒業した。第7期になる。この同窓会は卒業後いつ頃から始まったのかは定かではないが、おそらくは40歳 (不惑)か50歳(知命)とかの区切りの年に始まったのではなかったろうかと思っている。特に同窓会の異名はなく、単に「泉丘第7期同窓会」と称し、当初から加茂君が旗ふりをして代表世話人として世話をし、毎年開催してきた。しかしこの会は、会員の総意により、80歳になったのを機に、一昨年に行った「傘寿の宴」を最後にして、全員を対象にした同窓会はなくそうということになった。この会は多い時には百名前後の参加があったが、全員が70歳台になってからは半数程度になった。そして参加するのは、地元よりはむしろ金沢を離れている同窓生が多い傾向にあった。それかあらぬか、最後の同窓会で、元気なうちは有志で同窓会を続けようとの案が出て、世話人は引き続き加茂君が、場所もこれまでと同じく地元石川の粟津温泉の能登屋で、時期は5月下旬か6月上旬に設定し、その名も「泉丘第7期仲良し会」として続けることになった。今年は6月1日 ( 金 ) 2日 ( 土 ) の開催、30名ばかりが集まった。そして会は遠来勢が半数を占めていた。女性も10名ばかり、遠来勢はこれを機に故郷金沢を楽しんでいる風情だった。新しい会は今年で2度目で、また来年もやりましょうということになった。
「湧泉会」
 平成14年 (2002) に、同期の村田君が「台湾村田」の社長を辞して日本 ( 金沢 ) に帰ってくるのを機に、諸 ( もろ ) 君の提唱で「耳順会」が発足した。同調したのは14名、幹事は持ち回りが原則だったが、北陸交通の社長だった山田君の世話で、随分と格安で料亭や温泉旅館を世話して貰えた。会は四季に合わせて年に4回、15年間続いた。一方で年に4回は少な過ぎるとの意見もあり、金沢信用金庫の理事長だった廣部君が叙勲されたのを機に、晩の耳順会に加えて、村田君の肝いりで、毎月1回、昼に金沢ニューグランドホテルで月替わりに和食・中華・洋食を食べながら談笑する会「湧泉会」を発足させた。平成24年 (2012) のことである。そして平成29年 (2017) 、耳順会60回、湧泉会60回を迎えたのを機に会名を「湧泉会」に統合し、月1回の会のほか、年に1回温泉へ出かけることにした。人数は発足当時は12名、その後2名入会したが、現在まで3名が他界、3名が病気療養中、2名は多忙とかで不参加、現在ほぼ毎回参加できるのは6名である。それでも会では談論風発、実に楽しい実りのある会だ。いつも「もう時間です」と言われて散会する始末だ。
「一泉同窓会」
 旧制金沢一中と新制泉丘高との合同の同窓会で、毎年創立記念日の10月15日の夕に金沢駅前のホテルで開催される。今年はホテル金沢日航で開催された。毎年参加者は1200人前後、今年は創立125年、泉丘70周年にあたり、テーマは「一泉の絆を未来へ」だった。一昨年までは7期の同窓生は3卓を占めていたが、昨年からは2卓、今年の参加者は17名だった。しかし年に一度だが、久しく会っていない先輩後輩に会うのは楽しい限りだ。
 また例年創立記念日の前日祭として、旧一中校舎のあった金沢歌劇座から泉丘高校までの4 km ばかりを歩く一泉行列が毎年行われていて、今年は8月29日に行われることになっていたが、生憎の悪天候で、今年は残念ながら中止になった。

2018年11月18日日曜日

新シーズン第3回目の OEK 定期公演は圧巻だった(2)

(承前)
2.モーツアルト 交響曲 第 40 番  ト短調 K.550
 モーツアルト最晩年の 1788 年に作曲された交響曲の第 39 番、第 40 番、第 41 番「ジュピター」の3曲は、モーツアルトの三大交響曲と言われている。でもこの3曲がどんな目的で書かれたのか、果たして依頼者があったのか、また初演の日時や場所も不明、また果たして生前に演奏されたのかどうかも不明という、実にミステリアスな最晩年の交響曲である。
 さてこの40番は、41 曲ある交響曲の中で、25番と共に唯2曲のみ短調であることでも知られている。比較的演奏回数も多く、私は OEK での演奏も数回聴いている。そして私が最も親しみを持てたのは、OEK が岩城宏之さんの指揮で初めて CD を録音した時の曲が、この曲とチャイコフスキー作曲の「弦楽のためのセレナード  ハ長調」で、しかもその録音が私が現在住んでいる野々市市 (当時野々市町)の文化会館「フォルテ」で行われたことである。このこともあって、この CD を購入してからは、就寝時に家内と共に聴くことを常にしていた。それだけに愛着が深く、家内はクラシックは余り得手ではないが、このモーツアルトの交響曲第 40 番はお気に入りで、この曲が演奏曲目に入っていれば聴きたいというまでになった。私も暗譜できる程になってしまった。演奏時間は 30 分ばかり、CD は両方合わせて1時間ばかりだ。
 第1楽章 モルト・アレグロ V n による流れるような 序奏 の第1主題で始まり、そして高揚し、その後柔和な第2主題が。でも曲の流れというか印象は、これまで聴いてきた第 40 番とは全く違った印象のものだった。短調の曲なのだが、鈴木さんの実に激しい全身を使った身振り手振りの指揮に度肝を抜かれてしまった。何という激しさ、これを情熱が漲った指揮というのだろうか。OEK の前音楽監督、現桂冠指揮者の井上道義も時にこのような激しい指揮をされたことがあるが、とてもその比ではない動き、クラシックでのこのような激しい指揮ぶりは全くもって初めての経験だった。
 第2楽章 アンダンテ ひっそりとした緩徐楽章のはずなのだが、指揮はやや収まりが見えるものの、相変わらず激しい。
 第3楽章 メヌエット 本来は優美な踊りの曲なのだが、後半には激しさが増した。
 第4楽章 アレグロ・アッサイ 急速に上り詰めるような、駆け上がるような高揚感。もう最後はこれでもかこれでもかというような熱狂的な演奏で終末になった。本当に驚いた。こんな40番もあるんだ。終わってスタンディングオベーションもあり、聴衆はこの情熱的な破天荒な演奏に惜しみない大拍手で応じた。何とも激しい40番だった。もうこんな40番は聴けまい。

 休憩後の後半は、メンデルスゾーンの未完のオラトリオ「キリスト」と宗教音楽の詩篇42番「鹿が谷の水を慕い喘ぐように」の2曲。合唱は RIAS 室内合唱団 ( ドイツ ) 。この合唱団は「世界の10の合唱団のひとつ」に選ばれているという名門。ジャスティン・ドイルが首席指揮者・藝術監督をしているとあるが、今回は金沢には来ていない。来沢したメンバーは、ソプラノ 11 名、アルト 8 名、テナー 9   名、バス 8 名の総勢 34 名である。この後半の2曲にはパイプオルガンの伴奏が付いた。
3.メンデルスゾーン:オラトリオ「キリスト」作品 97   (Sop/Ten/2Bas/Cho/Orch)
 第1部「キリストの降誕」、第2部「キリストの受難」からなり、本来であれば第3部「復活と聖天」と続く予定だったらしいが、早世して完成には至らなかったという。全体を通じて、ソプラノ独唱が1、テノール独唱が6、三重唱が1、合唱が6、コラールが2から成っている。歌詞はドイツ語である。指揮は相変わらずダイナミックだった。
4.メンデルスゾーン:詩篇42番 作品 42 (Sop/2Ten/2Bas/Cho/Orch)
 第1曲「合唱」 第2曲「アリア」ソプラノ 第3曲「レチタティーヴォとアリア」ソプラノ 第4曲「合唱」 第5曲「レチタティーヴォ」ソプラノ 第6曲「五重唱」ソプラノ・テノール・バス 第7曲「最終合唱」 世界に名立たる合唱団、ソロも合唱も実に素晴らしかった。指揮も凄かった。
 

2018年11月15日木曜日

新シーズン第3回目の OEK 定期公演は圧巻だった(1)

 2018 年9月に始まった OEK (オーケストラ・アンサンブル金沢 ) の新シーズンの演奏会も、11 月に入ってシーズン第3回目の第 408 回定期公演フィルハーモニー  シリーズが 11 月1日に石川県立音楽堂コンサートホールで開かれた。OEK が本拠地の金沢で定期公演するのは、年間でフィルハーモニー・シリーズが8回、マイスター・シリーズが5回の計13回で、ほかにファンタスティック・オーケストラコンサート (以前は定期公演にカウントされていたが、現在はカウントされていない)が3回ある。さて、今回の OEK 設立30年のこのシーズン第3回目の定期公演のキャッチフレーズは、「 OEK と日本が誇る世界の マサアキ・スズキと OEK の至福の化学反応」とある。しかし私は不覚にもこの著名な指揮者の名は知らず、ましてや聴いたこともない。でもこの驚くべきキャッチフレーズを見て、これまで接したことのない新しい感覚での演奏や演出が見られるのではないかと心待ちにし、期待もした。
 第 408 回定期公演の概略は、指揮:鈴木雅明、ソプラノ:リディア・トイシャー、テノール:櫻田 亮、合唱:RIAS 室内合唱団、コンサートマスター:アビゲイル・ヤング ( OEK 第1コンサートマスター)という触れ込み。演奏曲目は、クラウス/教会のためのシンフォニア、モーツアルト/交響曲第40番ト短調、メンデルスゾーン/キリスト、同/詩編42番「鹿が谷の水を慕いあえぐように」の4曲。これらの曲目では、モーツアルトの交響曲第40番以外は聴いたことがあるかも知れないが記憶にはなく、しかも声楽曲とあっては尚更だ。また指揮者の鈴木雅明という方も私には未知の方であり、どんな演奏が聴けるのか、実は聴くまでは楽しみと不安が入り交じった感情だった。
 指揮者の鈴木さんのプロフィールはというと、現在東京藝術大学の名誉教授であり、イェール大学やシンガポール大学でも客員教授をされているという。そしてバッハ・コレギウム・ジャパンの創設者であり、バッハ演奏の第一人者としても名声を博されているとのこと、また近年はバロック・アンサンブルとの共演も多いという。だからかその功績もあって、ドイツ連邦共和国からは功労勲章を授与されているし、ドイツ・ライプツイッヒ市より「バッハ・メダル」、ロンドン王立音楽院からもバッハ賞を受賞されているという。また日本でも紫綬褒章を受賞されている。そして母校の東京藝術大学に古楽科を新設されたとも。でも私にとっては初めて接する方だった。
 プログラム
1.クラウス:教会のためのシンフォニア ニ長調 VB 146
 クラウスはドイツで生まれ、スウェーデンで活躍した宮廷作曲家とある。生年はモーツアルトと同じ1756 年、没年はモーツアルトの1年後の 1792 年、モーツアルトと同じく早世だったという。作風も当時の作風もあってか、聴くと聴いたことがあるような旋律があるのに気付く。「スウェーデンのモーツアルト〕と言われる所以に納得できる。生前にイタリア、フランス、オーストリアを巡る旅に出た折に、ウイーンでモーツアルトの知遇を得たという。この曲は 1789 年の作曲で、ストックホルムの聖ニコライ教会で行われたスウェーデン議会の開会式で初演されたという。曲は2部構成で、モーツアルトの交響曲を思わせるような穏やかで心が和む曲だった。鈴木さんの指揮はというと、穏やかながら、両手上半身をフルに使われての指揮、静かな曲だが、それにしても驚きの指揮だった。

2018年9月27日木曜日

OEK (2018 - 2019) 定期公演始まる (2)

「新年度初めての定期公演」
 設立 30 周年を迎えたシーズンの皮切りの第 406 回定期公演が石川県立音楽堂コンサートホールで 2018 年9月 20 日に開催された。指揮は新しく常任客演指揮者になった川瀬賢太郎、ピアノは小山美稚恵、コンサートマスターはアビゲイル・ヤングだった。川瀬賢太郎は弱冠 34 歳ながら、神奈川フィルの常任指揮者、名古屋フィルの指揮者、八王子ユースオーケストラの音楽監督をしている。これまでも何回か OEK を指揮していて、その端正な指揮ぶりには定評がある。小山美稚恵は日本を代表するピアニスト、チャイコフスキー国際コンクールやショパン国際コンクールに入賞された実績を持つ重鎮、久しぶりにお目にかかったが、オバサンになられた。昨年度はこれまでの功績で紫綬褒章を授与されている。アビゲイル・ヤングはもう随分前から OEK の第一コンサートマスターをされていて、定期公演の半分以上はコンサートマスターを務めておられ、ソロ奏者としても素晴らしい技巧をお持ちで、これまで何回も超技巧の難曲を聴かせて頂いた。
 さて今年度初回の定期公演は、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンの3曲、どなたの選曲かは知らないが、共通しているのは、この3人の天才が同時期に生存していたということである。ハイドンは 1732 - 1809 、モーツアルトは 1756 - 1791 、ベートーベンは 1770 - 1827 、そうすると、ベートーベンが生まれた 1770 年からモーツアルトが没した 1791 年の 21 年間は、3人が共存していたことになる。演奏されたハイドンの交響曲第90番は 1778 年の作品、モーツアルトのピアノ協奏曲第20番は 1785 年の作品、ただベートーベンの交響曲第5番はモーツアルトの没後の 1808 年に出来上がった作品である。
1.ハイドン:交響曲第90番ハ長調  Hob. 1− 90
 ハイドンの「パリ交響曲」群の続編の2曲中の1曲、初めて聴く曲だった。ところでこの曲の第4楽章、弦・管・打が大音響であたかも曲が終わったかのような印象、当然大きな拍手、ところが指揮者は暫くしてやんわり拍手を制して再び演奏を続行、そして再び全曲が終わったような演奏、今度こそ終いと当然大きな拍手が、ところが再び指揮者が間をおいて拍手を制して再度演奏を続行、そして三度目の大団円が本当の終いだった。この曲も一度でも聴いていればこんな失態をやらかす羽目にはならなかったと思うが、何ともハイドンらしい茶目っ気のある曲だった。よく引き合いに出されるのは、ウェーバーのピアノ曲の「舞踏への勧誘」である。
2.モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K. 466
 モーツアルトには短調の曲は少なく、41番まである交響曲ではト短調の第 25 番と第 40 番の2曲のみ、また27番まであるピアノ協奏曲でも、このニ短調の第 20 番と ハ短調の第 24 番のみと少ない。さて演奏は、ベテランのピアニストと新進気鋭のコンダクターの取り合わせ、カデンツァの部分もかなりあり、指揮には随分気を遣っている様子が伺えた。しかし終わってみれば、実に晴々とした二人の表情が実に印象的だった。ひょっとして初めてのコラボだったのでは。鳴り止まぬ拍手に応えて弾かれたアンコール曲は、バッハ作曲平均律クラヴィア曲集第1部「 24 の前奏曲とフーガ」から第1番ハ長調、4分弱の曲、丁寧な弾き方だった。
3.ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
 言わずと知れたあの冒頭のタタタ・ターンというリズムのある曲、作曲者のベートーベンが「運命が扉を叩く音」と語った音は、曲は知らなくても誰もが知っていよう。熱演だった。アンコール曲はシューベルト作曲「ロザムンデ」から間奏曲第3番変ロ長調、この曲もよく知られている曲だ。
 終わって指揮者の川瀬さんから挨拶があった。このシーズン何度か棒を振られるだろうが、新進気鋭の俊英の川瀬賢太郎さんに今後も期待したい。